日々のぼやき | 2016年 1月11日(月) 9時28分 |
非常に恥ずかしい話ですが、勉強になった話。
2015年の10月12日、我が友人、F氏と一緒にCanon EOS 55の応急修理完了時に、写真を撮影しに行こうか、という話になった。 当日の朝、天気が良いから薩埵峠(さったとうげ・住所は静岡県静岡市清水区由比西倉澤付近)とかどうか、という話になり、いいんじゃないのかなぁ、なんて返事をしていたら、彼はまるで報道カメラマンよろしく迅速に(こちらが驚くほどの速さで)家まで駆けつけてきた。まぁ、彼の家から我が家まで車で3分かかるかどうか、徒歩でも10分程度なのだが。 慌ててカメラバッグを持ち、三脚を持ち出して出発。 私の写真撮影のスタイルは一風変わっているのか、あるいは病気上・性格上そういうものなのか。単独行動が多い。 構図を考えて、三脚を立てて、風景や対象を見ながらタイミングを計って、という、そういう撮影方法はしない。ぱっと見て、まぁ露出時間と絞りはこんなもんかな、と一瞬考えて、ぱぱっと撮影して、次のポイントに移動する。 案の定、撮影ポイントで三脚を立て、冒頭の写真のようなアングルになるようにして、うんまぁこんな感じなんだろう、と数枚撮影。写真を撮りたがる人がどんどん来るので、すぐに三脚を畳んで展望スペースの隅に移動した。
F氏は違った。空いた瞬間に即座に、いっちばん良い場所に三脚を立て、カメラにはCanonの赤ハチマキ(白い鏡筒に赤ハチマキは最上位グレードのレンズ群)望遠レンズ。 次々に人が来ても気にしない。周囲の人が彼を避けて写真撮影を開始しても気にしない。アングルを決め、じっと待っている。雲ひとつない晴天なのに何を待っているのだろう。東名高速道路か国道1号線の車の流れ? と思ったら違う。併走する東海道本線に電車が走ってくるのを待っていたのだ。 後から来た人は渋々、後ろの柵の上によじ登って撮影を開始していた。でも気にしない。というか他の人にも、こっちの様子も気にしない。
写真家としての気概を感じた。古代ギリシアの哲学者プラトンが述べるには「理性と欲望、魂」というところか。写真専門の学校に通っただけのことはある。暴力的な表現をするならば、 「このカメラとレンズが見えないのか。お前らの携帯やコンデジとは違うんだ。邪魔をするんじゃない」 と威圧(威嚇)しているようにも見える。いや、威圧しているのかもしれないが。 私は割とパンフォーカスなスナップ写真を撮影するのが好きなので、望遠レンズは使わない。単焦点もしくはワイド側のズームレンズくらいしか使わないし、その時持っていった装備もそんな感じだったので(写真機はフィルムだが)、何の威圧感もない。 私はしょんぼりとして、時刻表データを携帯で呼び出し、あとどれくらいで撮影ポイントまで電車が来るのかを彼に伝えるアシスタントへと成り下がったのだ。
でもまぁ、ひとつ勉強になった。写真家としての気概。 高校生くらいの時にフィルムを使い、1カットに全力を注いでいた時代を思い出した。(部費の都合もあるので好き放題連写というわけにはいかなかったのだ) 常時燃え上がっていては疲れてしまうだけだが、ここぞという時には絶対に場所を譲らない、満足のいくカットを撮影するまで動かない。それくらいの魂もまた、私には必要なのだ、と。 |